助五郎は勢力に付け狙われ、心臆して飯岡村には居れず、所々をさまよっていたが、最早別状ないだろうと彼地へ戻った。そして、良いことを思い付いたとて、勢力の身の行いを聞出し、八州方役人へ吹聴した。八州方役人は、早速召捕らえるべしと3月8日朝六ツ時、小者凡百人計を、小見川町室田宅へ着き朝飯をとらせ、それより万歳村へ押し寄せる。また、その節笹川村は鎮守祭で、小者が色々な商人に姿を替え村に入り込み、勢力の所在を探った。その頃、勢力と手下はこの村の岩瀬の家にいた。捕方が向かってくると、早速勢力に知らせがあった。勢力は驚く色なく、皆に向かい、たとえ数万の捕方でも恐れるに足りない、ここで捕方を防ぐのは安い事だが、一先ずここを立退き、山林に身を隠し、所々に恩を受け世話になった者も数多くあり、それらの者へ遺言の一口宛も残したく、我はこれより何れへ落ち行くが、其方共も一緒に連れて行きたいが、人数多きは路地の妨げになり、其方共思い思いのままに何方へなりとも落ち行くべし、と言った。詮方なく、手下の者は思い思いに落失せた。勢力は、無二の手下なる栄助という一人を連れ、妾は手下の者に申付け落しやり、その夜の内に何国ともなく逃去った。
万歳村・笹川村両村は、小者の外人足20人・30人ずつ手配し、四方八方へ平押しし、その上軒別に家捜ししても勢力の行方は知れない。その夜笹川宿陣屋に御取締出役2人、小者300人、万歳村も同様、軒別に家捜しした。隣村の銚子屋は、勢力の定宿なので、助五郎を先途として小者数百人入り込み、家財を粉微塵に打ち砕いた。何れも、村々の悪党共には前代未聞の大騒動となった。羽計村勇吉という親分は、子分一人連れて谷津村に隠れているところを召捕られた。同類の佐吉という者も、後草村で、飯岡村助五郎に召捕られた。この度召捕に向かった人数は凡そ千人との事。この節召捕らえた悪党は、麻生・土浦・佐倉・小見川・太田の五か所の陣屋へ預け置かれた。勢力手下も、万歳村勇吉は村方にて召捕られ、小南村文悦は猿田野にて、同村仙助は夏目村にて飯田村卯兵衛は谷津村にて、阿玉村甚助は佐原村で召捕られた。勢力の妾二人も召捕らえられた。
勢力は、3月28日まで所々山々を廻っていたが、手配が厳重になり蟻の這出る所も無くなり、小南城山の間、金毘羅山という所へ逃げ上った。後から関八州取締出役を先頭に手先の者千余人、村人足千五百人、都合二千五百人が追う。鉄砲数百挺、筒を揃えて打立て、時の声を揚げて押寄せる。その物音天地に響き、山も崩れる計だったという。勢力はちっとも騒がず、捕方現れたら皆殺しにしてくれんと、栄助と共に用意の鉄砲つるべ打ちに打つと、先手の者6,7人打ち殺された。寄手は大勢で登れなくなり、暫く見合っていたが、たての支度をしてるところに上より鉄砲が打ち掛けられ、寄手の者多数打ち殺された。そのうち鉄砲の音が止み、登って見廻すと、勢力は栄助と共に切腹していた。栄助の介錯は勢力が致し、自分は後で腹十文字にかきさばき、誠に勇ましき死に様と、見る人皆感じたという。
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